フクロウ学園

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中学1年 社会 歴史

1206年 【モンゴル】 チンギス・ハンがモンゴルを統一

 1206年 ユーラシア大陸東側中央部のモンゴル高原のオノン川付近の遊牧民族の指導者テムジンはモンゴル高原の他の遊牧民族を破り、モンゴル高原を制覇します。
 同年 テムジンはモンゴル高原のクリルタイと呼ばれる族長会議で、モンゴルの皇帝の称号チンギス・ハンの称号を受けて、モンゴル帝国を誕生させました。
チンギス・ハンの「ハン」は遊牧民族の長の意味です。
モンゴル帝国は蒙古(もうこ)帝国ともいいます。
 モンゴル帝国は全遊牧民を1000戸(家族)単位の集団に分け、軍事では約1000人の兵士に分けて帝国を治めました。
これを千戸制(せんこせい)といいます。
チンギス・ハンは、千戸の長にチンギス・ハンの一族や功績のあった家臣を長に任命しました。
チンギス・ハンは万里の長城の南(中国)を攻略するため、モンゴル帝国の東西の貿易の道にモンゴル軍を進めます。
 1209年 黄河上流の西夏(せいか)を屈服させます。
 1215年 チンギス・ハンは黄河以北(今の北京周辺)(きん)の攻略をはじめます。
 1218年には中央アジアの西遼(せいりょう)を滅ぼします。
 1221年 当時、西トルコ・イランを支配していたイスラムのホラズムという国を滅ぼし、インダス川上流のインド西北地域にまで侵入します。
チンギス・ハンは多くの地を支配下においていたため、宗教・文化の異なる地域を治める方法として、南方の豊かな農耕地帯をモンゴル帝国の直轄地にしてダルガチと呼ばれる行政長官を置き、他の地域は帝国内に小王国をつくらせて、一族をその長として治めさせました。
金の攻略途中でチンギス・ハンは亡くなります。
 1225年 チンギス・ハンの2男のチャガタイ・ハンは天山山脈の北側にあるイリ川からサマルカンド周辺の中央アジアを支配下において、チャガタイ・ハン国を建てます。
 同年 チンギス・ハンの3男のオゴタイ・ハンがクリルタイ(族長会議)によって第2代皇帝に選ばれます。
 オゴタイ・ハンはモンゴル帝国西北にオゴタイ・ハン国を建てます。
 1227年 1218年の中央アジアの西遼を滅ぼす際に協力をしなかった西夏を滅ぼします。
 1234年 オゴタイ・ハンは金を滅ぼします。
 1236年 チンギス・ハンの遺命によって、チンギス・ハンの長男ジュチの子バトゥはヨーロッパ遠征に出発し、今のロシアにあったキエフ公国や主要都市を滅ぼします。
 1241年 バトゥはドイツ・ポーランド連合軍を破り、ハンガリーを攻略しヨーロッパに脅威を与えますが、オゴタイ・ハンが亡くなりモンゴル帝国軍はロシアのボルガ川まで後退して、下流のサライにキャプチャク・ハン国を建ててモンゴル帝国の支配下におきます。
 オゴタイ・ハンにかわって長男のグユク・ハンが第3代皇帝に即位しますが2年で亡くなります。
 1251年 チンギス・ハンの4男トルイの子モンケ・ハンが第4代モンゴル皇帝に即位します。
モンケ・ハンは弟のフラグに西アジア遠征を命じます。
 1258年 フラグはイランのアッバース国を滅ぼして、イル・ハン国を建てて、モンゴル帝国の支配下にします。
ここにいたって、モンゴル帝国はアジア州の大半を手に入れますが、チンギス・ハンの死後、皇位継承の対立が激しくなり、各地の小王国は中央政権と分離します。