フクロウ学園

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中学1年 社会 歴史

1221年 承久の乱(じょうきゅうのらん)

 後鳥羽上皇は幕府内の争いをきっかけにして、近畿・西国地方の兵や僧を集め、執権北条義時(ほうじょうよしとき)追討(ついとう)(たおすこと)宣旨(せんじ)(めいれい)を出しました。
これに対して、実質的な幕府の長であった北条政子(ほうじょうまさこ)(源頼朝の妻)は遠江から東側の15カ国から兵を集めて息子の北条泰時(ほうじょうやすとき))と弟の北条時房(ほうじょうときふさ)に指揮をさせて都に兵を進めました。
この争いを承久の乱といいます。
 結果は、後鳥羽上皇側が破れ、北条氏の軍は都に入り後鳥羽土御門順徳上皇を隠岐・土佐・佐渡に流刑としました。
後鳥羽上皇側についた貴族・武士の所領を没収して、その所領に新しい地頭を任命しました。
 北条泰時・北条時房は六波羅(ろくはら)(京都)という場所の南北に、京都の守護に変わって六波羅探題(ろくはらたんだい)という京都の統制と西国御家人の統制をする機関を作り長官になりました。
さらに上皇の所領約3000箇所を没収して新たに地頭を置いて、西国の幕府の支配力を強化しました。
 承久の乱の上皇側の敗退によって、武家政権である幕府の支配は西国にまで及び武士の力が強くなりました。
荘園や公領に住むようになった武士は、土地の開墾を進めて下人や農民をつかって農業を営んで生活をしていました。
また、地頭になった武士は、農民がいままで荘園や公領の領主に収めていた年貢を勝手に支配するようになり、武士とそれまでの荘園領主や農民との争いが全国で増えていきました。
その争いは幕府の法廷で裁かれたので、土地に対する権利は地頭(幕府側)が領主(朝廷側)と同じくらい強いものとなっていきました。