フクロウ学園

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中学1年 社会 歴史

1391年 明徳の乱(めいとくのらん)

 1385年 成人した足利義満(あしかがよしみつ)は朝廷の権力を吸収して将軍の権威をあげていきます。
奈良や厳島(広島)などの寺社参詣を名目にして権威を誇示して、有力守護や南朝勢力を押さえ込みます。
地方では守護が国司の権限を吸収して勢力を拡大していきました。
 1389年  2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)に5カ国の守護に任ぜられた山名(やまな)は、当時11カ国を治める守護に成長し、六分の一衆と呼ばれていました。
南北朝統一を目指す足利義満はこの勢力を削るため、山名氏に内紛が起こると、義満はこれを利用して、山名氏清(やまなうじきよ)山名満幸(やまなみつゆき)を挑発して、細川・畠山・大内氏らに命じて、山名氏の長(惣領)になった山名時熙(やまなときひろ)山名氏幸(やまなうじゆき)を討たせます。
 
1391年 足利義満は山名氏清・満幸に対して態度を変えて、出雲の荘園から満幸を追放しました。
義満の真意を知った氏清・満幸は南朝を味方につけて京都に進撃します。
しかし、大内義弘(おおうちよしひろ)細川頼元(ほそかわよりもと)赤松義則(あかまつよしのり)の守護軍と義満自身の奉公衆(ほうこうしゅう)(将軍直属の軍勢)の防戦が固く、氏清・満幸が敗れました。
この乱を明徳の乱といいます。
 この乱によって、山名氏の所領は3国に減らされ、他はこの乱で戦績のあった武将に分けられました。
こうして、足利義満は周りの有力勢力を削って将軍の権力の安定をもたらしました。