フクロウ学園
トップページ|歴史目次
中学1年 社会 歴史
1399年 応永の乱
1399年 周防(山口県東部)・長門(山口県中部)・石見(島根県西部)・和泉(大阪府南西部)・紀伊(和歌山県と三重県南部)を治めていた守護の大内義弘が反乱を起こします。
大内義弘は1391年の明徳の乱で滅ぼされた山名氏の所領(領地)であった和泉と紀伊を得ました。
和泉と紀伊は貿易に厚い堺があり、その堺の商人を掌握して制海権(海を取り仕切る権利)を得ようと管領(将軍の補佐役)の細川氏と争います。
大内氏・細川氏ともに大きな所領をもっていたので、脅威を感じていた足利義満はその対応に迫られます。
1399年10月 堺に籠城(城に立てこもること)した大内義弘に対して足利義満は上洛(京へ来ること)を説得しました。
しかし、大内義弘は「鎌倉公方(鎌倉府の長官)である足利満兼の命令で籠城している」と反抗したので足利義満は討伐を決意しました。
1399年11月 足利義満は諸大名に堺攻撃を命令して、自身は奉公衆(将軍直属の軍隊)を率いて、丹波(京都府中部・兵庫・大阪の一部)・美濃(岐阜県の一部)・近江(滋賀県)の反乱軍を鎮圧させました。
1399年12月 三管領の畠山基国を中心とする幕府軍は堺城を火攻めにして焼き払うことに成功し、大内義弘は戦死、弟の大内弘茂は降伏します。
この反乱のことを応永の乱といいます。
足利義満はこの乱で幕府に逆らった11カ国の守護を更迭(ある地位にある人を他の人と代えること)しました。
さらに、和泉の国の反乱が2度目であったため、足利義満は和泉を1つの国に幕府よりの守護を2人置く半国守護制にして勢力を削りました。
このことで守護領国制(守護に各地域の統治を任せる制度)は1441年の嘉吉の変まで安定します。