フクロウ学園

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中学1年 社会 歴史

1467年 応仁(おうにん)の乱

 1460年の畠山氏の家督争いで負けた畠山義就(はたけやまよしなり)、山名持豊(やまなもちとよ)の支持を受けて、弟の畠山政長(はたけやままさなが)を失脚させて再び家督を取り戻します。
 1466年の斯波氏の家督争いで負けた斯波義廉(しばよしかど)は、甲斐・朝倉などの家臣団や管領職の細川・山名氏の支持を受けて管領に返り咲きます。
この畠山氏と斯波氏の家督相続争いに、将軍足利義政の弟の足利義視(あしかがよしみ)と子の足利義尚(あしかがよしなお)の世継ぎ争いが結びついて乱が起こります。
さらに、足利義視には有力守護の細川勝元(ほそかわかつもと)がつき、足利義尚には有力守護の山名持豊(やまなもちとよ)がついて、京都を中心に東西に分かれて約11年も争う大きな乱になります。
この大乱のことを応仁の乱といいます。
 まず、失脚させられた細川派の畠山政長が山名派の畠山義就を倒すために挙兵しますが敗れます。
緒戦に敗れた細川派は、山名派の領内各地で行動を開始します。
 細川派には細川成之(ほそかわしげゆき)細川常有(ほそかわつねあり)細川勝久(ほそかわかつひさ)畠山政長(はたけやままさなが)斯波義敏(しばよしとし)京極持清(きょうごくもちきよ)赤松政則(あかまつまさのり)武田信賢(たけだのぶかた)等が集まりました。
 山名派には山名教之(やまなのりゆき)山名勝豊(やまなかつとよ)畠山義就(はたけやまよしなり)斯波義廉(しばよしかど)六角高頼(ろっかくたかより)一色義直(いっしきよしなお)土岐茂頼(ときしげより)等が集まりました。
 1467年 5月 両軍とも各有力者に従う官や足軽を率いて京都に集まり、細川派から山名派を攻撃します。
細川派は本陣を花の御所とその北側の細川邸に敷きました。
対して、山名派は堀川を隔てた西側の山名邸に本陣を置いたので、細川東軍山名西軍と呼びます。
東軍の戦力は約16万1500 、西軍の戦力は約11万6000と言われています。
将軍である足利義政が開戦直後に東軍を支持することを表したので、西軍賊軍(ぞくぐん)(朝廷や幕府に対して敵とされる軍)になってしまいました。
戦いは一進一退を繰り返して、反乱工作や寝返り工作が繰り返されます。
 1473年 山名持豊と細川勝元が相次いで病死します。
 足利義尚は第9代 征夷大将軍に任命されます。
 1474年 これを受けて両軍の長を継いだ山名政豊(やまなまさとよ)細川政元(ほそかわまさもと)は停戦します。
しかし、山名派の畠山義就らが停戦に反対して、足利義政にも収集できずに対戦が続きます。
戦いが長引いたため、乱に参加した各守護の領地で政治が乱れ始め、帰国する武将が増え始めます。
 1477年 畠山義就が河内に戻り、これを機に西軍の武将は次々に自分の領地に戻り、この大乱もおさまり始めます。
 応仁の乱の一因となった畠山氏の家督争いはこの後も続き、1485年の山城の国一揆と1493年の畠山政長の敗死をもって終わりました。
この応仁の乱で戦った足軽は訓練をつんだ集団ではなかったので放火・略奪が続きました。
そのため、主戦場の京都の大半は多数の文化財とともに焼けてしまい、将軍と幕府の権力はさらに低下して、荘園制も解体して、幕府に支えられていた皇室・公家・寺社の権力も無くなりました。
結果、この応仁の乱を境に各地の守護や有力者への支配が及ばなくなり、領地を奪い合う戦国時代へ突入していきます。