フクロウ学園

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中学1年 社会 歴史

室町時代

 南北朝の動乱の中で、守護は半済(はんぜい)や守護請などにより権限が拡大して、守護大名(しゅごだいみょう)に成長しました。
 足利義満明徳の乱の結果、有力守護の勢力を削減できたため、幕府への中央集権が成功します。
南北朝の統一を成功させた足利義満は、幕府のしくみ作りに取り掛かります。
将軍と将軍を補佐する管領、侍所には有力守護が交代で担当して、政治の権力を握ります。
管領は細川、斯波、畠山氏、侍所には赤松、一色、京極、山名氏が任命されました。
室町幕府のしくみは以下のとおりです。

室町時代の産業
社会の安定と明や朝鮮との貿易によって、各地で産業がさかんになりました。
日本からは刀や銅、蒔絵(まきえ)が輸出され、明からは銅線、生糸、絹織物、書画などが輸入されました。
【勘合貿易(かんごうぼうえき)】
 義満は倭寇を禁止して、正式な貿易船と倭寇の区別をつけるために、明から送られた勘合(合い札のこと|左半分は日本、右半分が明を証明)を使って日明貿易(にちみんぼうえき)を行い課税して幕府の財源としました。勘合を使って貿易したため勘合貿易ともいいます。
 また、義満は幕府の直轄領である公方御料所の整備や、洛中・洛外(らくちゅう・らくがい)(京都の市街・郊外)の酒屋(さかや)(造り酒屋だけでなく金融業も行う者)・土倉(どそう)(質屋・金融業者)から段銭(たんせん)(臨時徴収する税)・棟別銭(むなべつせん)(家屋にかける税)を徴収する権利を朝廷から吸収し、寺社などに対して賦課金(ふかきん)(金額を割り当てて支払わせる税)を払わせて臨時の財源としました。
【農業】
 二毛作が広まり、かんがいには水車を、耕作には牛馬を利用し、肥料に牛馬の糞や堆肥(たいひ)を使うようになって収穫が上がりました。
麻や桑、藍、茶の栽培が始まりました。
16世紀には綿(わた)の栽培も始まりました。
 二毛作(にもうさく):米を収穫したあと、麦などを同じ田畑で栽培することです。
 二期作(にきさく)は米を1年に2回栽培することです。
 堆肥(たいひ):わら・落ち葉・排泄物を積み重ねて腐らせて作った肥料のことです。
【手工業】
 京都の西陣(にしじん)や博多の絹織物をはじめ、陶器・酒・紙・油などの特産物の生産が進み、刀や農具をつくる鍛治(かじ)・鋳物(いもの)業などがさかんになりました。
さまざまな技能や手工業に携わる人々を職人(しょくにん)と呼びました。
また、金・銀・砂鉄などの採掘が進んで、銀の精錬(せいれん)技術が改良され、生産量が増加しました。
 鍛治(かじ):金属を熱し、打ち鍛えていろいろなものを作ること。
 鋳物(いもの):鉄・青銅・錫(すず)・鉛などを溶かして、型に流し込んでいろいろなものを作ることです。
 精錬(せいれん):粗い金属の純度を良く練り上げて高めることです。
【商業】
 当時の商人は商品をかごなどに入れて売り歩くのが中心でした。
この売り歩く商人のことを、行商人(ぎょうしょうにん)といいます。
 (いち)(品物の交換や売買を行うところ)が広く各地に生まれ開かれる日数も増えました。
取引には宋銭や明銭が使われるようになりました。
 交通の要地では物資の運送を扱う馬借(ばしゃく)(年貢や物資を運ぶ業者)・(とい)(年貢米の陸揚げのために河川・港の近くで営む運送・倉庫業者)が活動しました。
 京都では、土倉や酒屋といった金融業者が幕府の保護を受けながら栄え、商人や手工業者は()と呼ばれる今の組合をつくり、貴族や寺社の保護を受けて営業を独占する権利をえました。
 こうして、各地の河川・港湾や寺社の門前に都市が成長していきました。
各地の都市では自治組織(民衆自ら幕府の機関や役人の手を借りずに、公共の事務を行う組織)をつくりました。
 貿易で栄えた堺や博多には、町衆(まちしゅう)と呼ばれる裕福な商工業者が集まって寄合(よりあい)(協議するところ)で話し合い町の政治を行いました。
【村】
 農村では有力な農民の指導のもとに、(そう)(農民の自治組織)がつくられ、かんがい(農地に水をひくこと)用水路の建設や管理、燃料や飼料をとる林野の利用や管理などについての村の掟を定めました。
 団結を強めた農民は、広い地域に渡って結びつき守護大名や荘園領主に抵抗し、年貢を減らすように交渉しました。
さらに、土倉や酒屋などの金融業者を襲って借金の証文を奪う土一揆(つちいっき)(農民の反乱)を起こすようになりました。
 1428年 馬借や農民が徳政令を求めて京都を襲撃した正長の徳政一揆(しょうちょうのとくせいいっき)が起こり地域的な徳政令を獲得(かくとく)します。
 1441年 武士主導で農民が反乱した嘉吉の徳政一揆(かきちのとくせいいっき)は幕府に徳政令を出させました。
【一揆】
 荘園や公領などの領域を超えて結びついた(そう)の農民らが起こす反乱を土一揆(つちいっき)といいます。
土一揆は借金を棒引きにさせる徳政を要求したことが多いため、徳政一揆ともいいます。
 力を強めた国人(幕府の支配に従わないで荘園などを管理した地頭や荘官・名主)らが守護大名に対抗して起こす反乱を国一揆といいます。
 一向宗徒が中心となって起こした反乱を一向一揆といいます。
 6代将軍足利義教の代には上記の嘉吉の徳政一揆や嘉吉の乱など将軍の権威を失墜させる反乱がおきます。
 8代将軍足利義政の代には将軍や守護などの家督争いにより応仁の乱がはじまり下剋上の風潮が高まりました。