フクロウ学園

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中学2年 社会 歴史

1573年 室町幕府滅びる

 第15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)は、近江の浅井氏や越前朝倉氏のほか、石山本願寺とも通じて、信長包囲作戦をはかります。
さらに、武田信玄が上洛を始め、織田信長は追い詰められます。
しかし、武田信玄は上洛中の死去し、武田軍は撤退します。
 危機を脱した織田信長は、足利義昭の信長包囲作戦をした大名を攻めます。
朝倉義景(あさくらよしかげ)は敗退して、越前大野(えちぜんおおの)で自刃し滅びます。
浅井長政(あさいながまさ)も父浅井久政とともに小谷城で自刃して滅びます。
織田信長は足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼしました
 足利義昭追放後、天皇に働きかけて皇位を高め、公卿権大納言兼右近衛大将内大臣になります。
  ※天皇の信任を得ないと武力だけでは民衆がついてこないことと、天皇を敵にすると賊軍(ぞくぐん)(国の敵)とされてしまうため、戦国大名は上洛して天皇から位をもらい、天皇の家臣であることを証明することに力を注ぎました。
 足利義昭は信長に追放されたあと、備後(びんご)(広島県東部)に逃れて毛利上杉本願寺などに公儀(こうぎ)(朝廷・公家や幕府の命令)として信長攻略を号令しました。
これによって、松永久秀(まつながひさひで)別所長治(べっしょながはる)荒木村重(あらきむらしげ)らの謀反(むほん)(主君をうらぎること)が相次ぎ、信長は苦境を迎えます。
この間、信長をもっとも苦しめたのは一向一揆(浄土真宗の宗徒による反乱)でした。
 豊臣秀吉は姉川の戦いの功績で浅井氏の近江北部の領地12万石を与えられます。
その際、長浜に長浜城を築城し、木下藤吉郎から羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし)と改名します。
略して羽柴秀吉(はしばひでよし)といいます。豊臣秀吉は後の名前です。
 秀吉の改名の理由は百姓出身の秀吉が大きな領地をもらうことになったためと、織田家の重臣である丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)からの嫉妬を買わないため、一字ずつとってにしたと言われています。
 足利義昭は1587年に豊臣秀吉の保護を受けて1万石を与えられました。