フクロウ学園
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中学2年 社会 歴史
1837年 大塩平八郎の乱
大塩平八郎の乱は、大塩平八郎が、庶民の救済を大坂城代に訴えましたが無視されたため、自ら蔵書などの私財を投じて庶民を救済し、武力蜂起した事件です。
大塩平八郎は大坂の与力として、1827年キリシタン弾圧、1829年大坂西町奉行所の与力弓削新右衛門の不正を告発、1830年破戒僧を遠投処分にするなど、優秀な与力でしたが、1830年に東町奉行の高井山城守実徳の辞職に殉じて与力を退職します。
その後、陽明学を修め、明の呉新吾の影響を受けて独自の思想を展開し、「太虚」「良知」を説いて、「知行合一」(本当の知は実践を伴わなければならない)の立場を明らかにし、「洗心洞箚記」(1833)・「儒門空虚聚語」(1834)・「増補孝経彙註」(1835)・「古本大学刮目」(1836)を著し、天満四軒屋敷に家塾洗心洞を開きました。
門人には大坂の与力・同心や近隣の豪農とその子弟が多く、また伊勢津藩や摂津高槻藩の家臣や近隣の教学を説きました。
天保の飢饉のさなか、関西一円の不作が著しく、大坂でも餓死者が出ていました。
大塩平八郎は、大坂城代に庶民の救済を訴えましたが、無視され米は関東に送り続けられました。
不正を働く役人と結んで巨利をあげる豪商への批判を強めて、蔵書を売却して困っている人々1万軒に金1朱ずつ配りました。
1837年2月 大塩平八郎は幕政の革新を期して、洗心洞に門人らとともに檄文を撒いて「救民」の旗をひるがえし武力蜂起しましたが敗れてしまいます。
同年3月27日靱油掛町で養子の格之助とともに自焼自刃しました。
大塩平八郎の乱は、元与力の反乱として、社会的影響が大きく、生田万の乱にも影響しました。