フクロウ学園

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中学2年 社会 歴史

化政文化(かせいぶんか)

 18世紀後半 本居宣長(もとおりのりなが)が「古事記」を研究して「古事記伝(こじきでん)」をあらわし、国学(こくがく)を大成しました。
国学は天皇を尊ぶ思想と結びつき、幕末の尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)に影響をあたえました。
 同じころ、杉田玄白(すぎたげんぱく)らが西洋の解剖書を翻訳し、「解体新書(かいたいしんしょ)」を出版し、オランダ語で西洋の文化を学ぶ蘭学(らんがく)の基礎を築きました。
こののち、オランダ語の辞書や文法の書物もつくられ、近代的な学問や技術が学ばれるようになりました。
 19世紀初めには、伊能忠敬(いのうただたか)が西洋の測量術(そくりょうじゅつ)を取り入れて、はじめて全国の沿岸を実際に測量し、日本全図をつくりました。
 文・文年間になると、文化の中心は上方から江戸に移りました。
この文化を文化といいます。
 町人たちは、町々につくられた寄席で落語を楽しみ、歌舞伎も鑑賞しました。
 文芸では、世相を皮肉る川柳(せんりゅう)狂歌(きょうか)が流行しました。
東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)のようなこっけいな小説が人気を集める一方、滝沢馬琴(たきざわばきん)の「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」などの長編小説も多くの人に読まれ、貸本屋も発達しました。
 俳諧(はいかい)(俳句)では、与謝蕪村(よさぶそん)が絵のような風景を表現し、小林一茶(こばやしいっさ)は農民の素朴な感情をよみました。
 浮世絵の技術も進み、鈴木春信(すずきはるのぶ)錦絵(にしきえ)とよばれる多色刷りの美しい版画を始めました。  錦絵は大流行し、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)美人画(びじんが)葛飾北斎(かつしかほくさい)歌川(安藤)広重(うたがわ(あんどう)ひろしげ)は風景画にすぐれた作品を残しました。  また、観光をかねた寺社参詣(じしゃさんけい)も容易になり、伊勢参りなどに出かける人も多くなりました。
 このころには、都市の文化が地方にも広がりました。
 教育への関心が高まり、町や農村でも多くの寺子屋(てらこや)が開かれ、町人や農民の子弟が読み・書き・そろばんなどの実用的な知識を学びました。
また、各地の町には私塾(しじゅく)も開かれました。
 諸藩では藩校(はんこう)を設けて儒学(じゅがく)を教え、武士の気風の引き締めと、人材の育成をはかりました。