フクロウ学園

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中学1年 社会 歴史

939年 藤原純友の乱

 瀬戸内では、藤原純友が瀬戸内海の利益と収納物をめぐり、藤原子高(ふじわらのさねたか;備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東南部から兵庫県赤穂市あたり)の国司)島田惟幹(しまだこれもと;播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部あたり)の国司)のを襲撃しました。
 940年 淡路国(あわじのくに:現在の兵庫県の一部)や南海道(紀伊半島〜四国)の諸国や、周防国(すおうのくに:今の山口県東南あたり)鋳銭司(ちゅうせんし:銭貨鋳造を司った役人)を焼き討ちしました。
 941年 藤原純友は筑前博多(ちくぜんはかた:今の福岡県博多あたり)で決戦を挑んで破れ、伊予国(いよのくに:現在の愛媛県あたり)に戻されて処刑されました。
この事件を藤原純友の乱といいます。
 935年の平将門の乱と939年の藤原純友の乱が年号で承平(しょうへい)・天慶(てんぎょう)年間に同時におきたので承平・天慶の乱とも呼びます。
この乱だけでなく当時は国司の襲撃や海賊による襲撃が多い情勢になっていました。
 地方では有力な農民が開墾にはげんで領地を広げて勢力を伸ばし豪族となりました。
 地方の豪族や中央の武官(御所の警備)などが武士となって従者を増やし組織して武士団をつくるようになりました。
承平・天慶の乱を朝廷がおさえることができたのもこの武士の力によるものでした。